おおうま部屋(ブログ)2011年
デザイン関係の仕事をしていた時、定期的に書いていたブログです。
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2011年12月10日(土) |
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積水ハウスのCM曲(村上ゆきさんが歌う So sweet~♪)は、テレビから流れてくるとつい口ずさんでしまう。他に高校性バージョンのものもあるけど、
そちらに振り向くことはないので、やっぱり歌い手の表現が響くのだと思う。ある番組で久保田利伸が「和田あき子さんが歌う『リーブ21♪』のワンフレーズに
ソウルを感じる」と言っていたけど、たぶん同じようなものかな。 |
2011年10月10日(月) |
何が嫌いかといって、日々の買い物ほどずっしりくるものはない。買える金があるのだからいいじゃないか、 金を稼ぐ方が何倍も大変だという意見は500%ごもっともだが、ここでは却下させていただく。なぜ買い物が負担かというと、 損をしないように選択し続けないといけないから。「選ぶ」というのは本当は楽しいことなのに、ここに金(損得)と他人の評価(家族の文句)が加わると状況は一変し、 私にとっては苦痛ばかりなりである。 たぶん同じ流れで、採点式のスポーツの勝敗は素直に納得できないのだと思う。人間の感情や思い込みの混じった点数をとることにしのぎを削り続けることを想像すると、 それだけでぐったりしてしまう。まあ、「美」は採点でしか評価できないから仕方ないのはわかるけどね。だからテニスやサッカー、バスケにゴルフといった、 他人の評価に左右されない単純な点取りゲームの方が性にあっていて楽しい。 娘が学校の課題で読んでいた「子供の学力低下」に関する本をぱらぱら読んでいたら、子供の目線での学びを考えるという項目があった。 私も子供の学力低下は、ゆとり教育とか学校の先生の多忙化とか教育システムの問題の方ばかり見てしまっていたのだけど、そこには、 子供自身が勉強することに意義を見出せにくい世の中であるのが一因ということが書かれていた。バブル崩壊までは、 勉強していい学歴をゲットできればいい就職や結婚につながり、いい人生を送れるという線路が目の前に見えていたけど、バブル崩壊後はその将来道が消えてしまったと。 確かにそうかもと思った。 わが家の子供たちが小学生の頃、塾に通う子は多かったけれど、本人に聞くと「行きたくない」と言ったし、何より「知らない新しいことを学校で学ぶ楽しさ」というのを 残しておいてあげたくて、あえて子供たちを塾には通わせなかった。子供には幸せになってほしいし、そのために何を与えられるかなと考えたとき、 やっぱり「自分で考えて生きていく力」かなと思ったのである。が・・・・(思い描いたようにはならず)。 買い物に限らず、こういうことやああいうことも、その時々で考えて必死で毎日、毎週、毎月、毎年選択してきた訳だけど、ここにきてかなり疲れている。 一番の理想は、庭からその時に必要なものだけを採ってくるような生活なんだけど・・・。ITの発達で選択範囲が日本中、世界中にまで広がっているのは果たして本当に 素晴らしいことなのか、実は昔のように移動できる範囲内で選択していた方が幸せで、地域経済もうまくまわっていたんじゃないのかと考えてしまう。 でももう、時代は戻せないけどね。 とりあえず、夕飯については半年前から食材配達契約にしてしまったので、気苦労も労力も1/5以下になりました。やはり人様の力を借りないと生きてはいけません。何事も。 |
2011年8月10日(水) |
先日ジムへ行ってヨガのクラスに参加したときのこと。その日は、「自分の体を感じる」というテーマで、 「肋骨の下の方を掴み、呼吸と共に肋骨が動いているのを感じてみてください」なんていうことでゆったりやっていたのだけど、 不意に「健康な体に産み育ててくれてありがとう」っていう気持ちが湧き上がってきて自分でびっくりした。 そういえば、この8月で母が他界して25年になる。私もこの冬、母の亡くなった年齢に追いついたのだけど、無意識のうちに、 無事に母の年を越せるかなぁという気持ちがずっと自分の中にあったようだ。人間の深層心理というのは侮れないものだと思う。 そのくせ、この3年ほど健康診断をさぼっていて、先日不摂生がたたって胃の持病が悪化し、胃カメラを飲むはめになった。 3年ぶり2度目ではあるが、機械が古いせいかコードは太いわ、先生なかなかこなくてノドの麻酔切れてくるわで、やっぱり最悪だった。 ずいぶん前に夫とケンカしたとき「俺は胃カメラで腹の中ひっかきまわされて死にそうな思いをしたのに!」と言い放たれたことがある。 自分がそんなに苦しい思いをしてるのに、女房が優しくも思いやりもないのに腹が立ったようだ(^^; でもその後自分が受けてみたけど、 「そこまで大騒ぎするほどのこと?」って思ってしまった。やっぱりピンクのハートは持ち合わせていないみたい・・・。 とりあえずお陰さまで特に大きな問題はないと判明し、安心してまた年を重ねられそうである。 母と同じ年になり、改めて何が無念だったかなと考えると、自分がやりたくてできなかったことより、子ども達の行く先を見届けられなかったことかなと
思うようになった。ん?いやこれは自分のことかな。もし自分だったらというタラレバ。でも大きくはずれてもいないような気はする。 |
2011年6月10日(金) |
好きなアニメといえば、「ガッチャマン」「バビル二世」「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」あたりかな。年がばれるわ(笑) 昔は他にも、ハイジ、大草原の小さな家、赤毛のアンなどの名作番組がたくさんありましたよね。最近好きなのが「ぬらりひょんの孫」。週刊ジャンプで連載されてますが、最初の頃は本の後ろの方にひっそり載ってた(人気薄だった)のが、いつの間にやら巻頭カラーを飾りアニメ化もされたようで、今ではすっかりメジャーになってしまってびっくりです。 小出恵介や佐々木蔵之介も、露出がまだ少なかった頃から好きでしたが(人に言うとだいたい「誰それ?」と言われたけど)、今では二人ともスターになってしまったので、もしかしたら私は、スターの原石を見つけるのは得意なのかも?(いや、勝手な一人思い込み) この頃は、亀梨くんもいいなぁと思います。共通点はなんだろう・・・たぶん「見ていてその人の何か(コア?姿勢?ポリシー?)が伝わってくる」人達なのかな。まあ基本、男性を見ている方が好きなわけですが(^^; 女性だったら、安室奈美恵、JUJU でしょうか。 そして、やっぱりすごいと思うのが桑田圭輔。自分が学生時代に聞いていたのに、その当時と同じ年頃になったの子供たちが聞いて「いい!」と言う。30年以上の年齢差を越えてて支持され、さらにこれから先も若い人を取り込んで支持層を増やしていくミュージシャンはそうそういないと思います。私もサザンの活動再開を信じて待ってる一人です。 |
2011年4月10日(日) |
桜が満開で美しいですね。見ているだけでいろいろな意味を感じたり、喜哀交錯した感情が湧きあがってくる今年の桜。。。早いもので今日で一ヶ月が経ちました。被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。 仕事机の脇の引き出しを引っ掻き回して探し物をしていたら、一昨年の春、京都へ旅行した時に買ったキーホルダーが出てきました。あら、こんなところに。そういえばこれ、夫にもお土産で買って帰った気が・・・。まああえてのデザイン違いだから「おそろ」じゃないんだけど。そこに書かれている文字は、 龍安寺の蹲踞(つくばい)に刻まれている言葉として有名ですよね。ちなみに蹲踞とは、茶室の庭先にある石の手水鉢(ちょうずばち)のことです・・・。はい、その通り、ググッて調べて転記しただけです(^^; しかし本当に「足るを知る」のは難しいです。たぶん今現在のことだと結構できるのだけど、将来のこととか子どものことを考えると、不安にとりつかれてワラワラしてしまうんですよね。でも将来を不安に思うのは人間だけだという話を聞いたことがあります。動物は「今現在」に不安は感じるけれど、「この先どうなってしまうんだろう」という未来への不安は持っていないのだと。確かにそうかもしれません。 「不安」自体はいいでも悪いでもなく、場合によって必要なセンスだと思いますが、この感情が一番伝播しやすくて、人の気持ちを支配しがちで、なおかつそれが継続しやすいというところがやっかいな点だと感じてます。人間のいるところで起きている問題は、結構ここに起因していることも多いようにも思いますし、テニスの試合で負ける原因のトップだったりします。ああ、なんど負けたことか・・・。 でもよくよく見ると「不安」の根っこには「一人ぽっち」「全部一人でやらないと」っていう思いがたいていあります。不安解消の方法は人それぞれだと思いますが、「足るを知る」のも一つの方法ですかね。 この先、長丁場ですが、お互い頑張りましょう。 |
2011年2月10日(木) |
先日の新聞に「ウィルスは生物か」というテーマで高校生と授業をしたという記事が出ていた。 ド素人の私にしてみると、名前の感じから生物っぽいと思うし、伝染するインフルエンザとかの原因が生き物じゃない (石ころみたいなもん)と言われてもピンとこない。高校性の答えの中に「自己複製するから生物」というがありナルホドと思ったのだが、 それに対して講師が「コピー機だって複製する。じゃあコピー機は生物?」と問いかけていて、そんな無茶な・・・と絶句してしまった。 細胞の複製とメカのコピーは絶対違うと思う。 ま、結局のところ「生物の定義」がはっきりしないと、ウィルスが生物かどうかは判定できないという流れになり、「生物とは何か」と問いかけていた。 人それぞれ答えはあると思うけど、私の頭に浮かんだのは「生物とは、他(者)の命をもらわないと存在できないもの」だった。 地球が誕生した後に条件が整い、偶然だか必然で生命が生まれたわけだけど、何の因果でこの地球上の生物は他者を食べないと 生きていけないカラクリにされてしまったのか、理由があるなら教えてもらいたいものだ。もしやこれは宇宙の主が謀った何かの罰ゲームなのかと思ってしまう。 そういえば以前、物理学者は楽天的で、生物学者は悲観的だという話を聞いたことがある。物理学者は、「この地球に生命があるのだから、 広い宇宙の中には生命のいる星はたくさんある、地球だけが特別ということはない」と考えるのだが、生物学者は、「地球上に生命があるのは奇跡であり 他では絶対に起こりえることではない特別なことだから、宇宙に生命のいる他の星はない」と考えるのだそうだ。 物理学者はマクロの中に、生物学者はミクロの中に宇宙を見ているのだと思うけど、自分を大きなものの中の一つにすぎないと考えるのか、 この世に一つだけの特別なものと考えるのか・・・相反するようだけど、人間誰しもこの両天秤抱えてふらふらしながら生きているのだから、結局、
大いなる宇宙の主の掌の上で転がされているだけのことだったりして? じゃあ宇宙の主はどんな姿をしているのだろう・・・ 一切お腹の足しにならない、くだらぬSF的妄想でした。ちゃんちゃん。 |
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